聖和歯科クリニック

福山市の歯科,小児歯科,矯正歯科 聖和歯科クリニック

〒720-0825 広島県福山市沖野上町3-8-3
TEL 084-922-0047

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院長のつぶやき

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■入れ歯治療
部分入れ歯はつくったが、ポケットに入ったまま、たんすの引出の中に入れたままという方も多いのではないでしょうか。
それでも結構食べられている。これが事実であり、現実でもあります。
食事の時にだけ入れている方もおられます。そういう方にうかがうと、「やっぱり入れないと食べにくい」からだそうで普段は邪魔だから外しておくと言われます。
でもそういう方こそ入れ歯をつくる時は「よく噛める入れ歯を入れて欲しい」と言われます。それはもっともで、入れ歯を「食べる時のためだけど道具」とされているわけで、それ以外は必要としておられなければそうなります。
そういう方がおられるのを実際に考えると、入れ歯というのは歯のなくなった部分の粘膜を保護するプロテクター的な役割をしていると常々思います。
入れ歯で「しっかり食べられる」となるといろいろ条件があるでしょうが、まずはあまり大きくなくて、安定しているということがいえると思います。部分入れ歯についてはこの条件は現在ではほぼクリアーされていると思います。
いろいろな特殊な装置(アタッチメント)を用いることによって、ガム、お餅、を食べても浮き上がらない入れ歯、また魚も骨ごと食べることのできる入れ歯の製作は可能です。さらにこういった入れ歯は患者さん自身で入れ歯のきつさを調節することが可能です。「今日は友人と外で食事だから外れにくいようにちょっときつめに」なんてことも可能なのです。また、よく噛める入れ歯であることに加え、当院では長時間装着していても気にならない入れ歯、そして見た目の良い入れ歯づくりを目指しています。
当院ではしっかりとした入れ歯を入れたいという方に様々な方法を提案しています。

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■矯正治療
歯を抜かなくて治療中ほとんど痛くない矯正治療であっても、患者さんにとって装置を入れておくということは、我慢のいることだと思います。
矯正治療を終えて装置を外してきれいになった口元を見た瞬間、みなさんにっこりされます。
歯科医療の中でも矯正治療とは、治療した後必ず「あの時しておいてよかった」と思える治療だと思います。
歯科医療の進歩とともに、それにともなう歯科材料学も進歩しました。
従来でしたら治療をあきらめておられた方も(年齢、治療期間が長いなどの理由で)治療が可能になっています。「学生時代に矯正治療ができなかったのですが大人になった今からではもう遅いのでしょうか」というご相談もよく受けます。
そのような方に「大丈夫ですよ。まだ治すことができます」とお答えすると、とても喜ばれます。
歯科医をしていて良かったと思える時は、こんな時なのかもしれません。
歯並びでお悩みの方は一度ご相談いただけたらと思います。


 
■虫歯治療(3Mix療法)
3Mix療法がマスコミでとりあげられたりして有名になりましたが、この治療法自体はそう新しいものではないように思います。
私が大学を卒業して一番最初に苦労したのが、患者さん自身痛みが全くないのに、ものすごく大きな虫歯があるということです。そういう虫歯に対して虫歯菌に感染しているところを全部取ると、処置前何ともなかったものがしみたりするようになってしまいます。これは当然あってはいけないことで、治療前より悪くなってはいけません。虫歯菌に感染してるところであっても、すべて取り除かなければよいのではないかということは私も、当時勤めていた医院の院長も感じておりました。ただその取り残した虫歯菌に感染した部分をどうするのか、それが悩みの種でした。取り残した状態でその上からつめものをすれば、つめものの下で虫歯が進んでしまいます。そんなことで悩んでいたいたその時、1994年の日本歯科評論10月号、11月号に「う蝕治療のための新しい抗菌的アプローチ」という記事が2回シリーズで掲載されました。この記事はとても衝撃的でした。
新潟大学歯学部の岩久先生によるこの論文は、虫歯菌に感染しているところをそのまま残し、無菌化して再利用するというものでした。早速患者さんに応用したところ、非常に良好な結果となり、以後、今日まで多くの症例を経験してきました。
やはり虫歯が深くまで(歯の中に通っている神経近くまで)進んでいる場合でも、できれば神経は取らない方が良いと思います。歯の中に神経があるのは理由があるからであって自然が与えてくださったものに無駄なものはありません。
私は歯に元々備わっているものを極力損なわないようにする治療を心がけています。


■スポーツマウスガード
スポーツマウスガードってご存知ですか?ボクサーやラグビーの選手などが試合中に口の中に入れているマウスピースのことです。コンタクトスポーツでは、試合中の衝撃により歯を折ったり、歯で口の中を傷付けたりすることがあります。それを防ぐためのものです。
その他の効果として、クレンチング(食いしばり力)に対する歯の抵抗力が増すので競技能力の向上も見込めます。マウスガードにはいろいろな種類がありますが、当院ではオーダーメイド(カスタムタイプ)のものを御希望の患者さんにおつくりしています。
担当技工士はボクシング元世界チャンピオンのマウスガード製作を担当した者ですので満足して頂けるものが出来上がるかと思います。ご興味おありの方は一度ご相談ください。


■接着歯学
歯科の日常で、接着は治療のあらゆる場面で必要となってくる技術です。
かぶせを歯につけるとき、歯の根の中に土台を立てるとき、グラグラになった歯を固定してしっかりさせるとき、割れた入れ歯を修理するとき等々、様々な場面で活躍します。
そして、この接着を精密に行うことが、予後に大きく影響を与えます。
接着歯学に精通していることは、痛んだ天然歯を再度よみがえらせるために必須であると私は思っております。
これは結局は歯を抜かないことにつながっていきます。
患者さんがあきらめていた歯を抜かないで済むことは、私にも、もちろん患者さんにとっても嬉しいことです。そして現に喜ばれています。
歯の根が最低でも7mm顎骨の中に残っていれば、接着歯学を駆使すれば歯を残せる可能性が広がります。
あきらめずにベストを尽くす、マイスター(職人)としての治療に、接着歯学は欠かせません。

接着歯学会のホームページはこちら


 
■SOD様作用食品
SOD様作用食品という物を御存知でしょうか。
SODとはスーパーオキサイド・ディスムターゼの頭文字をとったもので、「活性酸素」を取り除く「酵素」のことです。
活性酸素が体内に増加すると、癌や成人病など様々な疾患を引き起こすことが明らかになってきています。細菌・ウイルスなどの病原菌をはじめ、身体にとって異物となる物が身体に侵入してくると、血液中に存在する食細胞が侵入した異物を食べてくれます。食細胞は取り込んだ異物を溶かして排泄するために、細胞内で活性酸素を作り出します。
ただし、この活性酸素が必要以上に作り出されると余分な活性酸素が食細胞の外に排出し、正常な細胞を溶かしたり刺激を与えたりして様々な障害を与えるようになるのです。人間の身体には、体内に活性酸素が増えても、余分な活性酸素を取り除く酵素であるSODが存在していて、病気を防ぎ、健康を守るしくみになっています。
しかし現代社会では、公害、薬害、食品添加物の害などが原因となり、体内の活性酸素が大量につくり出される環境をつくり出しています。そのため、体内のSODの産性だけでは活性酸素を取り除くことが追いつかなくなってきているのです。特に40歳を超えるとSODの活動力が低下するといわれています。40歳を越えると成人病や癌にかかる人が多くなりますが、これは40歳を越すと、体内のSODの活動が低下して、活性酸素や過酸化脂質(過酸化脂質はインスタントラーメンをはじめとする加工食品の中に多量に含まれています)の弊害に抵抗できなくなるからであると言われています。ただ、残念ながらSODという酵素は、分子量が大きいために、内服しても胃で破壊され、腸から吸収されませんでした。それを内服できるように研究されたものが「丹羽SOD様作用食品」です。当院ではこの「丹羽SOD様作用食品」の販売を行っています。また、冊子、研究会報の最新版(いずれも無料)も随時取りそろえております。御興味おありの方は当院受付までお尋ねください。
開発された土佐清水病院院長 丹羽 靱負(にわ ゆきえ)先生(京都大学医学部卒・医学博士)は次のように言われております。「活性酸素をはじめとする免疫学の研究を通して私が知った"自然の摂理"は、私に大自然のメカニズムの精微さと人間の自己治癒力の偉大さを教えてくれました。"病気は自分が治すもの"私は、この理想を患者さんの誰もが実現できるように医師の立場から最大限の努力を続けています」
私の日々の臨床もかくありたいものだと常に思っております。

日本SOD研究会のホームページはこちらから

 

■子供さんの治療について
私が子供さんの治療について一番に心がけていることは、「無理をしない」ということです。子供というのは、こちらを信頼してくれると、いとも簡単に治療をさせてくれます。そのためには、まず一番最初の来院のときに怖がらせないことです。
お母さんにももちろん診察室に一緒に入って頂きます。治療中に子供と母親を分離するメリットは全くないと私は考えています。特に小さいとき、子供とお母さんの絆は本当に強いものであり、子供は診察室に、お母さんは待合室で待って頂くなどというのは、双方が不安になります。
ですから私は子供さんの治療中は診察台のすぐそばにお母さんに座って頂いて、全てをオープンにしてみて頂いています。途中経過もお口の中をのぞいて頂いて、「ここがこうなっていますから今日はこうします」とか「この虫歯はこのまま様子をみましょう」とかライブでみて頂きます。子供さんの治療に一体全体何をされたかわからないなんていうことは、当院では一切ありません。子供さんも慣れてくると「お母さん今日はいいよ」というときもありますが、私はそれでもお母さんには全てをみて頂きます。
それでも治療をどうしても子供さんがさせてくれないとき、そんなときは別に何もしません。子供は発育し、一日一日と賢くなっていきます。6ヶ月も待ってあげれば、自然と治療ができるようになることが多いです。4歳くらいになるとたいていの子供さんが治療できるようになります。それまではお父さんお母さんにも待って頂きたいのです。
歯医者に慣れるために1ヶ月に1回フッ素塗布にでも来て頂ければ良いと思います。そして慣れたら治療をすることです。幼いときに歯科に対する恐怖心を植え付けないこと、これが大切であると私は考えています。そのためには繰り返しますが子供は発育することを知り、「待つこと」です。


昔は考えられなかった事が今は現実に 
以前私が勤めていたとき、患者さんに言われた言葉が忘れられません。
患者さん :「先生、歯がぐらぐらになるということは、歯を支えている骨がなくなるってことですよね。そう前も言っておられましたよね。」
:「その通りです。ただその失った骨はもう元には戻せないんですよね。」
患者さん :「先生、何かこの骨のなくなった所に塗ればなくなった骨がまた元通りになるような物ってないんですかねぇ。」
:「う~ん、そのような物は残念ながら今のところありませんねぇ。」
ですが、今はあるんですよね。こんな夢のようなものが。歯にチョッチョッと塗るだけというわけにはいきませんが、もう少し複雑なのですが。スウェーデンのStraumann社が製造しているエムドゲインゲル(エナメルマトリックスデリバティブ)を用いた歯周組織再生療法を行えば現在では歯周病で失った骨を再生することも可能です。また、スイスのOsteohealth社からはGEM21SというPDGF(血小板由来増殖因子:Platelet Deriyed Growth Factor)とβ-TCP(リン酸第三カルシウム)を用いた歯周組織再生療法剤も発売されています。(日本未承認)
エムドゲインゲルは現在世界44か国で約100万症例に使用され、事故の報告は一例もありません。安全性の高い材料であると思われます。
今、患者さんに再生療法の手術をした後、ときどき思うことがあるのです。
あのとき私に質問をしてくれた患者さんは今頃どうしているのだろうと。
患者さんが言われることに真の医療のニーズがあり、そして答え(この場合は歯は抜くものでないし、誰しも抜きたくない。再生できるのであれば一番良いのではないか。)があるのではないかと思います。


■世間では大変と言うけれど
最近知り合いに会うと、「歯医者さんって今大変なんでしょう」とよく言われます。
何が大変なのかは多分経営のことだと思うのですが、これは世の中のどんな業種も、今は大変なのだと私は思っています。
ただ、私はこの仕事が好きなので、仕事が苦になることはありません。
いつも思っていますが、患者さんの立場に立った診療を行っていけば、大変なことはないと思っております。
以前私が勤務医であったとき、院長と帰る方向が同じであったので、よく一緒にJRで帰っていました。帰りの電車の中でよく院長に言われたのが、「これからの臨床医は絶対に矯正治療ができなくてはいけない」ということです。
私も今、つくづくそう思います。
院長には「矯正治療や総義歯製作といった歯科の分野は、口元の審美に直結した分野なので、これからの世の中のニーズに合致したものである」とよく言われました。
ですから私は努めて矯正治療、義歯治療、インプラント治療といった審美に直結する分野は積極的に勉強して参りました。そして歯科のあらゆる分野に深く精通したいと考えております。
何より、臨床医として嬉しいのは、治療終了後、鏡をみられてニッコリ微笑まれる患者さんの笑顔をみるときです。
このとき心の中でいつも恩師である院長に頭を下げています。


歯科の本質とは
以前勤務をしていた時に、恩師である院長がよく言っていた言葉が、「歯科の本質は技術である。」ということです。そしてさらに、「一本の歯を残す技術もないのに『予防歯科』を前面に出すことはおかしい。技術を磨け。」と言われました。「予防歯科というのは治療が終了した後に自然発生的に生ずるものである。」とも言っておりました。私も同感です。
予防歯科の究極の目標は「一生自分の歯で食べる。」ことであると私は思うのです。ならば当然「一本の歯をこだわりを持って残す技術」が必要ではないでしょうか。
歯科医院の本質は院長を中心とした技術力であり、スタッフ中心の予防歯科ではないと私は思っています。
それでなくては本当に困った人は助けられないと思うのです。


面接の思い出
最近スタッフを雇用するための面接をしていて思ったことは、「何時に帰れますか?」といった質問が多いことです。以前は「給料はどのくらいになりますか」「残業手当はつきますか」というような質問が多かったように思うのですが、最近はほとんどありません。特に若い人から「何時に帰れますか?」という質問が多いように思います。
私が就職にあたって、以前勤務していた医院の院長の面接を受けた時、私が尋ねたことは「一日何人診療すれば良いですか」といったことでした。その時の院長の一言は、「そんな心配はしなくていい。1年目は1日2~3人でも良いから、時間がかかってもきっちりと治療できるようになってください。」というものでした。今考えても本当に院長には頭が下がります。
今の私があるのも、当時勤務していた医院の院長のおかげであるといつも思っているのです。


歯科医師としての仕事に余力を残さない
私は休みの日は勉強のために遠方へ行くことがあります。多いときで1か月に3回、少ないときで1か月に1回ぐらいでしょうか。泊まりがけのときもありますし、日帰りのときもあります。東京近辺の勉強会になると朝は4:00起きぐらいになります。帰りは22:00頃でしょうか。
「少しは休んだら」と言われることもありますが、私は自分が歯科医師を辞めるときに仕事に対して「精一杯やった」と思って辞めたいので、自分に余力を残したくないのです。歯科医師としての人生に「悔いはない」としたいのです。
私は今年40歳になりました。あと長くて40年ぐらいでしょう。その間で今の体力で仕事ができるのは20年ぐらいでしょう。あと20年しかないのです。あっという間であると思います。
「人生は早いですよ」私の大恩ある御方のおっしゃったことが身にしみます。


私は人に恵まれています。多くの人に助けられて。
私は正月に一年の目標をいくつか立て、それをメモにした物を常にポケットに入れて持っています。今は9月ですが、メモがボロボロになってくるにつれて達成されたことも増えてきます。
今年は例えばこんな目標を立てました。「医院の誘導看板の設置」です。当院は表通りから一本奥へ入っているため、土地勘のない県外や、県内でも遠方から来院される方から「誘導看板が欲しい」という御要望を頂いておりました。
実は以前は大通りに面した銀行の敷地内に、銀行にお願いして看板を出させて頂いていたのですが、その銀行が支店の統合で廃店してしまったので、1年6ヶ月程誘導看板がない時期があったのです。
そこで1月に近所のいつもお世話になっている病院の先生に広告業者さんを通してお願いしたところ、快く看板を病院の駐車場内に出させて頂くことをお許し頂いたのです。無理なお願いを聞いて頂いて本当に感謝しています。
なかなか看板というものは出せないものなのです。私は今まで色々とお願いしてきた経験からわかります。
人に恵まれて今の自分があると感謝している次第なのです。

 

あっという間だった 
先日、3歳の息子に自転車を買ってやりました。
自分が父に自転車を買ってもらったのは、4歳の時であったと思います。
自転車が届いたときの光景は、今でもはっきりと目に浮かびます。
その頃は時間がとてもゆっくりと進んでいた気がします。
「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。」という論語の一節を習ったのは、中学校の国語の時間であったと思います。
その頃は、「たぶんそうなんだろう」と思うだけで、実感というものはもちろんありませんでした。
自分が大学に入学してから、早や20年以上の歳月が流れました。
その中学生の時からは、30年近くの歳月が流れました。
あっという間であったと思います。
近年はさらに時の流れる速度が加速して、まるで新幹線の中から景色をみている感じです。
前述の論語の一節が、今は身をもってわかります。
そして人間は、そのときへ向かって毎日毎日進んでいるのであると思います。
皆、普段は忘れているか、考えないようにしているだけではないかと思います。
あと20年ぐらいなど、あっという間に経ってしまうと思います。
日々生かされていることに感謝して過ごしていきたいと考えています。


 
感謝の心
今年の夏、うだるような暑さの炎天下の日、新幹線に乗った。
何と快適なんだろう。車内はほど良く冷房が効いており、車内販売では冷たい飲み物から弁当、おまけにアイスクリームまで売られている。
本当に有難くて素晴らしい。
もしこれが江戸時代であったら、歩いて行くことになろう。東京まで歩いたら、果たして何日かかるのであろうか。
あの炎天下の中、歩いて東京まで行くとなれば、正に命がけともいえるだろう。
私たちは本当に文化的な生活を送らせて頂いている。
これはひとつの例であるが、現代は大変に恵まれた世の中になっている。
ごくごく身近なことでいえば、水だって川へ汲みに行くことはない。蛇口をひねれば、壁から水が出てくる。
感謝しようと思えば、ありとあらゆることに感謝できるはずだ。
大変に恵まれた世の中に生かされているのだと気付けば、心のあり方も変わってくるだろう。
しかし全てが当たり前になっている。この期に及んでまだ、不平不満を皆が並べ立てている。
やれ貧困だ、やれ政治が悪い。本当にそうだろうか。
感謝の心と不平不満の心が同居することはあり得ない。
人間はもう一度自らの身のまわりを見渡し、「有難い」と感謝をする必要があるのではないかと思っている。


 
私が一緒に仕事をしたい人 私が考える「プロフェッショナル」のあり方とは 
今日はモチベーションが高いから仕事がはかどったとか、今日はモチベーションが低いので・・・などと言うのは「プロフェッショナル」の言うことではないと私は思う。従って私はこのような人とは一緒に仕事をしたいとは思わない。
仕事において大切なのは、その職場に対する「責任感」であると私は思う。
一生の間には順調なときもあれば体調の悪い日もあり、すっきりしない気分の日もあると思う。ただそんなことを理由に仕事に対する責任感や集中力が左右されるようでは、患者さんはたまったものではない。
つらいときも楽しいときも普段と変わらず淡々と仕事をこなせる人こそが、私は「プロフェッショナル」であると思う。
そのときの自らの人生の立ち位置をしっかりと受け止めて、成すべきことをきちんとしてくれる、そのような人と働きたいと私はいつも思っている。


 
親孝行 
「孝は百行の本(コウハヒャッコウノモト)」という。親孝行はもろもろの善行の基である(孝、道之美、百行之本也)という意味である。
皆、親孝行をしたいと考えているが、現実にはなかなか難しい。
この言葉でもわかるように、「あの人は親孝行だが、あの点ではダメだ」というようなことはないのである。親孝行ができていれば、その他も立派に成しているというのが世の常である。
親を粗末にし、子供を可愛がる人というのがときどきいるが、全くもって本末転倒である。親を粗末にして我が子の幸せなどあり得ないと私は思う。
子供などは放っておいても育つ。
私は親を大切にすることこそ、一番に考えなくてはいけないことであると思う。
では親孝行とは何か。私はそれは「親を安心させること」であると思う。

私事に親をわずらわせず、安心して日々心安らかに送ってもらえるように、社会で立派に自分の努めを果たすことであると思う。
そして皆が仲良く健康であること、これが最大の親孝行であると思っている。


 
年金について 
何年か前であったが、テレビの年金についての討論番組で、若い世代と年金を受け取っている世代とに分かれて議論をするものがあった。
みていると一人の20代の女性が「今、年金の掛金を払っているのだが、本当は払いたくない。このお金を自分のことに使えたらどんなにいいかと思う」という主旨のことを話していた。そして双方で歩み寄りのない議論が延々と行われていた。
確かにそうなのであろうが、私は何とも苦々しい気持ちになったことを今でもはっきりと覚えている。
話は少し変わるが、『老いては子に従え』という言葉がある。若い世代がこれを年配の方々に用いたらそれこそ角が立つだろう。仲良くいくはずがない。
しかし若い世代が『亀の甲より年の功ですよ』と年配の方々を立て、年配の方々が「いやいやそうじゃない。やっぱり『老いては子に従え』ということも大切だよ」とおっしゃれば、両者共に仲良くやっていけるのだと思う。相手の立場を思いやることが大切ではないだろうか。
年金について私ももちろん掛金は払っているが、将来年金がもらえてももらえなくても、それはそれで構わないと思っている。
現在年金を受け取られている世代の方々は、戦中戦後で私の世代とは違い大変な体験をされた方々である。私はそれを想い現在年金を受け取られている方々のお役に立てればと思い、年金の掛金を納めている。であるから、自分が将来年金をもらえるかもらえないかは、正直二の次なのである。(おそらくもらえないと思っているのですが、その時は働けばいいと考えているのです。)
私にとって年金の掛金を納めるということは、世の中のお役に立てるということでとても嬉しいことなのです。


 
若さについて 
若い人で自分の若さに感謝をしている人がどれだけいるのであろうか。
若さのありがたさは失ってみてはじめてわかる。
若さは当たり前のことではない。
たそがれるほどに人は灯りが恋しくなる。
再び若さを取り戻せるのであれば、「自身の財産を全て投げ打ってでも」というのが人間の本心であろう。
若さに感謝できれば、若い時代の日々の過ごし方も変わってくるのだと思う。
若い人はいま一度、若さについて思いをはせるべきであると思う。


 
学者ばかりつくるような教育が大切なのか
私が大学を受験した時代は、受験戦争と言われた。今はゆとり教育というらしいが、それもあやしくなって、また勉強の量を増やそうということらしい。
はっきり言えることは勉強する子供は強制しなくてもするだろうし、しない子供は強制してもしないということだ。
ただ、勉強をしない子供がお先まっ暗というのではなく、大人がその子供たちにもふさわしい道を示してやることは、大切なのではないかと思う。
学者ばかりつくるような教育を受けることだけが勉強でもないだろう。
世の中には例えば八百屋さん、運転手さん、肉屋さん、花屋さんなど色々な分野のプロの方々が居られて成り立っている。
学校で教えられない多くの分野というものが世の中にはある。
世の中は学者ばかりで成り立っているわけではない。
それよりもこれからの世の中は、人柄の良い人が増えるような教育こそが大切であると思う。


 
生かされているということ 
1ヵ月たつと髪の毛はのびる。それなりにのびる。のび方にときどきによって差はあるかもしれないが、確実に時がたてばのびる。自分は何もしていない。0.1mmだってのばそうとしてない。しかしのびている。
心臓は動く。トクトク動く。自分は動かそうとひとつも思っていないのに動く。確実に正確に動いている。
朝目が覚める。何事もなく目が覚める。まわりの景色も一緒である。昨日と寸分違わぬ現実がそこにある。私が何をしたわけでもない。目をつむっていただけである。
私は「生きている」のではない。
このとき確実に「生かされている」と感じる。


 
終戦記念日
今の若者たちに「終戦記念日がいつか知っているか」と尋ねたら、全員は答えることはできないだろう。
私が高校3年生の時、担任の先生が3学期に入ると「これからはZ旗(ゼット旗)をかかげていく」と言ったのも、今思えばそれが私達には通じたのであるから、時代は変わった。今なら「どういう意味?」というところだろうか。
診療をしていても思うが、戦時中に戦争に実際に行かれた方が、本当に少なくなっていると思う。
今に戦争を体験された方が、日本から一人も居なくなってしまう日が必ずくるのだと実感する。


 
当たり前のこと、だけれどみんな忘れている
医療ではできることとできないことを、はっきりと患者さんに伝えることが大切だ。
サイエンスではないこと、そして今までの経験上の直感で、「難しい」と感じたことを無理に行っても、迷路に入り込むことになる。
昔できなかったことで、今できるようになっていることがある。
昔も今もできるが、やっぱり行わない方が良いとわかってきたこともある。
できるが、やってはいけないこともある。
医療では、これらをはっきりとさせることだ。
所詮医療とは人間のすることだ。それは努力の範疇のことであり限界はある。
また患者さんは、自分の健康は医者から与えられるものではなく、自ら築き上げていくものだと認識することが大切であると思う。
医療や薬というものが病気を治すのではなく、病気を治す一助に過ぎないと気付かなくては、真の健康は得られないと思う。


 
科学の限界を知るということ
何でも医療で改善することができるというのは、大きな誤ちであろう。
専門医であろうが、博士号を持っていようが、自然の前には無力である。
偉大な力により生命が与えられており、生かされているということを忘れてはいけない。
決して自分の力で生きているのではない。生かされている。
からだに必要なものは、全て与えられており、それを大切にしながら、医療というものをすすめていきたいと私は考えている。

小さな蚊一匹たりとも人間はつくることができない。
「何でも私にかかれば治すことができる」
そのような姿勢は危険極まりないものといえるだろう。


 
少しゆとりを持たせてやった方が良い
今の親は自分が子供の頃のことを忘れて、子供に過度の期待をかけているように思う。
いつの時代もそうであるが、いつの間にか親は子供の前では「優等生であった」になる。
100の力を出せるモーターに、100や120の力を出させないことだ。
100の力を出せるなら、80や70にするようにみていてやる。
それが一番無理がないと思う。


 
竹馬の友 (ちくばのとも)
「竹馬の友」といえば、小学生の頃の友達のことを思い出す。
昔は今ほど宿題もなかったので、学校から帰れば暗くなるまで友達と外で遊んだものだった。
当時(昭和50年代初め)は野球が人気で、授業が終わると校庭や公園で、クラスのほぼ全員の男が集まって野球をすることが多かった。
「子供は外で遊べ」という風潮でもあったし、周囲の大人達も、色々な意味でおおらかであったように思う。
通りがかりのおじさんが飛び入りで、「ちょっとおじさんにも1球打たせてくれー」などと言って入ってくることもあり、それも楽しかった。
大人が子供の野球にコーチをするようなこともなく、全くの草野球であった。
休みの日にはその学校からの転校生が仲介役になって、別の小学校の同じ様なチームと試合をすることもあった。
とにかく子供が多かったので、遊び相手は沢山いた。
友達の家にもよく遊びに行ったものである。皆で行き来していた。
友達の家に入るときは「おじゃまします」と大きな声で言い、帰るときは「おじゃましました」と言って帰るのが礼儀とされていて、「家長が在宅時には行かない」ということが、暗黙の了解であった。
大勢で遊びに行って迷惑をかけてしまったこともあったと思う。それでも帰りには、いつも「また皆でおいで」と言われ、思い返してみれば有難い子供時代であった。
今では懐かしい思い出だ。
そして二度とあの様に集まることができないことも、余計に懐かしく思わせるのだと思う。


 
感謝の日暮らしをする 
人間は自分に都合の良いことは感謝できる。
それすらもできなければ、もはや論外ではある。
自分に都合の良いことも悪いことも全て感謝でき、そして自らの心を正していける。
そのような人は素晴らしいと思う。
私もそのようになりたいと思っている。


 
お土産を考える 
固い煎餅を食べて歯を折って来院される方が、一年に1人か2人おられる。
「あまり歯が良くないので、普段からあまり固い物は食べない様にしているんです」と普段おっしゃっている方が、固い物を食べて歯を折ってしまう。その事が不思議で本人に聞いてみると、多くはお土産である事が多い。特に固い煎餅などが多い。
そこで私が思うことは、固いお土産はやめた方が良いのではないか、という事である。
世の中には、歯が悪いという方が現におられる。
ただ、会社でお茶うけなどに出されると、断りきれずに食べる人も多いようだ。
そういう事で歯が折れるという事は、正に悲しむべき事でしかない。
お土産には配慮が必要であると思う。


 
人間は弱いものだ 
年をとれば誰しも弱くなる。
若いときに手を合わすことがなかった人も、合わすようになる。当然であろうと思う。
人間とは弱いものだ。
地位、名誉、財産などは、最後には結局、何の役にも立たないことを知るのだと思う。


 
やめたらおわり 
どんなことでもやめたらおわり。当たり前だけれど、やめたらおわり。
あきらめたらおわり。
何としてもやり抜くのだ、という気持ちが大切であると思う。
そしてその時を感謝して楽しめれば、もっと良いと思う。


 
寝不足、過労、ストレスは大敵 
人間のからだほど精密なものはないと思う。
これが突然具合が悪くなるということはない。
小さなサインが必ず出ている。
それを無視して、不摂生なことをするから病気になるのである。
医者や薬が病気を治すのではない。
あくまで手助けしたり、治ることを補助しているにすぎない。
寝不足、過労、ストレスの3つが重なれば、どんなに健康な人でも必ず病気になる。
このことはとても大切であると思う。


 
相手の心境がわからずして 
相手の心境がわからずして、相談を受けても良い回答はできないであろう。
相談を受けた者は、それに答えたということで自己満足になるかもしれないが、相談者が一枚上であれば、さっさと見切りをつけるであろう。
相談を受ける者は相手が今何を望んでいるのかということを「見通す」ことができなければ、適切なアドバイスはできない。それは言葉としては表れてこないことである。
それができない者は、ただ単に自分に都合の良いことを相談者に言っているに過ぎないことは、明白といえるであろう。
わかる人にはわかると思う。

 

人に尽くす仕事 
医療は純粋に商売とはいえないと思う。
私は人助けであると思っている。
しかし、それだけでは厳しく感じることも度々である。
他人のために行ったことが他人のためになり、かつ自分の喜びにもなる。
こうありたいと思っている。


 
メイクの技術は進歩しても 
メイクの技術は進歩しても、どうしても変えられない部位は口元=(イコール)歯であると思う。
出掛ける前にどんなに時間をかけても、歯だけはどうにもならない。
お気に入りのメイクで、口元を気にしない一日というのも良いのではないかと思う。
矯正治療はこの一助になることができる。
矯正治療は医療ではあるが、美容という側面が多いことは否定できない。


 
メイクの技術は進歩しても(2) 
メイクの技術は進歩しても、どうしても変えられない部位は口元=(イコール)歯であると思う。
従って逆にいえば、歯並びを変えることによって劇的にその人の雰囲気が変わってしまうということが、治療を行っていれば日常的によくある。
それは本人に喜びをもって、感謝されることでもある。


 
メイクの技術は進歩しても(3) 
歯並びは良いが、歯と歯の間に隙間のある人がいる。
メイクではどうしようもない。
上の真ん中の歯と歯の間にあることが多く、正中離開という。
むしろわずかなことであるから、歯並びが美しく整っていると余計に目立つ。
矯正治療を行うことも多いが、簡単に治る方法もある。
これを気にしている人は多い。
特に女性で気にしている人は多い。
ただ皆さん(歯周病の症状がなければ)簡単に治せることを知らない。
当院では2回の来院で終わる。歯を削ることもない。
型をとって、次回来院してもらい、それできれいに隙間はふさがる。
前歯の隙間をなくすだけで印象は大きく変わり、より一層知的な感じになる。
このようなことは、一生の財産になると思う。


 
こどもの口元が変わると
患者さんは、矯正治療には審美(美容)的改善を求めて来院することが多い。
そうなると、成人が中心となるとも思うのであるが、実際はそうではない。
矯正治療というものは、成人になり年齢を重ねれば重ねるほど、時間的制約や、治療期間が長期間になるなどの、本人がクリアしなければならない問題が増えることから、治療に踏み出しにくくなる。
むしろ、中学、高校生の年代の患者さんの方が、審美的改善を希望して来院することが多い。
治療後の口元をみて、母親が「別人みたいです」というようなことは決して珍しくはない。
こどもの顔というものは元々素直できれいなものであるから、口元を整えると、本人の光る部分が際立ってくることは、むしろ当たり前であるとは思う。


 
子供の矯正治療の開始時期
子供の矯正治療の開始時期は、歯科医師にすすめられたときに本人と保護者(特に母親)が納得したならば、その時期が開始時期で良いと思う。
あるいは、本人やまわりの大人が歯並びを気にして歯科医院に連れて行った場合は、たいていが開始時期となる。
歯科医師にすすめられたときに、保護者、特に母親が賛同できなければやめた方が良い。その母親の気持ちはおそらく間違っていない。
もしもそれでもすっきりしないときは、他の歯科医師に意見を求めたらいかがであろうか?


 
大器晩成
あんまり子供の頃から、あれもこれもと勉強をさせるのはどうかと思う。
子供の頃勉強ができたところで、たかがしれている。
子供の頃には、子供のときにしかできないことをするべきだと思う。
思いっきり遊ぶことだ。勉強をする子供は黙っていてもするし、しない子供はいくら言ってもしない。
成長するに従って頭角を現すという方が、伸びしろがあって良いと思う。
無理なことをして、子供のときに疲弊させてしまわないことが大切であると思う。


 
子供のむし歯
自分の子供にむし歯ができてしまうと、落ち込んでしまうお母様がおられる。 たいてい、子育てに熱心で、子供のこともいろいろと考えているお母様である。
私は、むし歯の1本や2本できたって良いではないかと思う。
そのために歯科医がいるのであるし、何も落ち込むことはない。
しっかりと治療をして、これからの子育てにこの経験を役立てていけば良いのではないかと思う。
子供がむし歯になったからこそ、わかったことも多いのではないだろうか。


 
治療費の問合わせ
矯正治療費の問合わせというものは案外多い。
ホームページをみた人からも、(治療費はホームページ上にのせているのにもかかわらず)問合わせはある。
基本的に治療費の問合わせに対しては、それ以上の対応はない。
なぜなら、実際にみていないので、それ以上のことは言えないのである。


 
ダイレクトメールがやって来た 
先日、「補綴メニューをつくりませんか」というダイレクトメールが当院にやって来た。
当院には毎日様々な歯科関係のダイレクトメールがやって来るが、いずれもとるに足らないものばかりではある。
今回のものは、「患者さん向けに、かぶせやつめ物のメニューをつくります」というものであった。
私は全く興味がないので、その場で処分した。
歯科医師が、かぶせやつめ物を売る「商売」をしている限り、決して歯科は浮上できないと思う。


 
本当にあなたの顎(アゴ)が悪いのか? 
義歯がうまく合わずに、「あなたの顎(アゴ)が悪いからできない」と言われて、しょんぼりして来院される方が案外多くおられる。
本人は落胆しきっており、どうしたら良いのか困りきっている。
もしも医科であれば、「こうである」と医師が患者に発言する際には、それなりの根拠が当然必要であり、根拠の無いことを発言することは許されないであろう。
もしも、自分がうまくできないがために、患者さんにその様な言葉をたたき付けているとしたら、相手にどの様な影響を与えるか考えた方が良いと思う。
専門家の一言は重い。
それを肝に銘じて発言するべきであると思う。


 
1をきいて10を理解する人 
1のことを伝えて、10の理解をする人がいる。
そのような人が、身近に居れば自分の片腕となり心強い。
また自分の足りないところを補助してくれる。
10のことを伝えて、1の理解しかできない人もいる。
前者と比べると100倍の違いがある。
数字で比較するとよくわかる。


 
自分の治療について納得いくまで尋ねる 
患者さんから、現在通院中であるが、少し心配なのでそちらへ転医しても良いですか、という電話は案外多い。
その方には、現在治療してくださっている先生に、心配ならばしっかりとお尋ねして、治療を継続して頂いて下さい、と言う。
もしも突然に、その患者さんが来院されなくなったら、先生も心配されるであろうし、第一、失礼ではないかと思うのである。
お互いの縁というものを大切にして欲しい。


 
歯科のやりがいとは 
歯学部への進学を希望する学生が年々減少しているときく。
歯学部の人気も以前はかなりあったと思う。
私が歯科医師になってからは、少しずつ歯科の人気が下がっていった。
それは、やはり歯科が歯科医師としての仕事をしてこなかったからではないかと思う。
今後の歯科の仕事は在宅医療であり、高齢者や寝たきりの人の口の中の清潔さを保ち、健康を守っていくということであるという。
確かにその通りかもしれない。
しかしそれは、結局はハブラシを用いての歯の清掃であり、フッ素による歯科疾患の予防ということである。
ハブラシとフッ素では、優秀な人材は歯科には進まないであろう。
歯科とは本当はとてもやりがいのある仕事であると思う。
歯科医療とは何かということを、改めてよく考えなくてはならない時代に入ったと思われる。


 
歯科は恵まれていないのか 
歯科は恵まれていないという人がいる。
それは、保険点数が低いからであるという。
医科と歯科では、初診料と再診料で同じ点数ではなく差があることも、同じ「医師」なのにおかしいという。
私にしてみれば、当たり前であると思う。
医師は、命に直接かかわる仕事をしているが、歯科医師はそうではない。
間接的には関与するかもしれないが、大多数の歯科医師は、無縁で毎日の診療をしている。
歯科医師の仕事は大変であるが、仕事を辞めて他の職業に就いたという人はまずいない。
本当に恵まれていなければ、早々と辞めて、転職するであろう。
「歯科医師の本来の仕事」をすれば、これほど恵まれている職業もないのではないかと思う。
日々感謝をされる仕事は、なかなかないのではないかと思う。


 
歯科医療と生活の質 
先日、自分の歯の具合が少し悪くなった。
理由はわかっていたので、自分で治療を行ったところ、翌日には良くなった。
その時に思ったことであるが、歯の具合が悪くなると生活の質が随分と下がるということである。まず食べにくい。自分は専門家なので心配はしなかったが、患者さんは随分と心配するであろうと思う。
思うように食べられないということは、かなり不便であるということが改めてよくわかった。
そして、歯科医療が生活の質の向上に役立っているということも実感した次第である。


 
小学校での歯科検診
小学校へ歯科検診に行くことがある。
その中に、歯列・咬合という項目があり、歯ならび、咬み合わせの検査を行う。 学校での歯科検診で、歯ならびの検査があると言うと驚く人も多い。
何か問題があれば、要観察か、要精検という結果を学校から出すことになる。 その様な時、明らかに口元を見ればわかるものもあれば、本人や保護者の方がよく見ても、 なぜこの様な結果となったのかわからないケースもあると思う。
例えば、歯ならびはきれいなのであるが、1本永久歯が生えておらず、その永久歯の生えるスペースの不足が著しい、ということがある。
また、永久歯と乳歯が交換していく過程で、永久歯が本来脱落すべき乳歯に加え、隣の乳歯まで脱落させながら萌出し、永久歯の萌出のスペース不足がみられるケースもある。この様な時は歯ならびは一見きれいな時と、前歯が隙間だらけで生えているケースの2通りある。
いずれにしても、学校から歯科検診の結果が届いたら、一見何も問題ないようであっても、歯科医院の受診をお勧めする。


 
歯科の常識から少し離れてみる
例えば以下のことに疑問を持ったことはないだろうか。
奥歯が1本抜けたら、その奥の歯が傾いてくるから、ブリッジを入れなければならないのか、とか。
そもそも、歯が抜けたら、そこには何か入れた方が良いのか、とか。
歯の神経(歯髄)を取り除いたら、全部かぶせなくてはいけないのか、とか。
矯正治療をはじめたいが、少しの歯のねじれを治すのに抜歯は必要なのか、とか。
入れ歯では全然食べることができないものなのか、とか。
その他にも、いろいろと患者さんは大いに疑問に思っていると思う。
そう思いながら、私は日常の臨床を行っている。


 
医科歯科連携
歯科も医科と連携して、これからは進んでいくのであるという。
歯科が医科の分野をできるわけがないし、するべきでもないであろう。連携といっても、口の中の清掃をする程度の話だ。
医科の仕事を行いたければ、医学部へ行って一から勉強し、医師免許をとることだ。
「100年前からある本来の歯科の仕事をしっかりと行うことが大切であり、それが一番国民に求められていることではなかろうか。」 むし歯治療、歯周病の治療、入れ歯を入れること、100年経っても満足のいく仕事ができていない課題は沢山あるはずである。
100年前からある自分たちの仕事を満足にできて、はじめて、医科歯科連携という仕事も意義をもつであろう。